ボランティアの「燃え尽き症候群」…
地元の神戸新聞に載った記事です。ボランティア活動を終えて日常の生活に戻った人達が精神的に不安定になるという話です。たとえば何かやることを探してそわそわしてしまったり、無力感や疲労から塞ぎ込み「鬱」状態になる、あるいは精神の興奮状態が覚めずに「躁」状態が続き対人関係に支障をきたす人が出てきているという言うのです。二宮小学校に住みこんでいたボランティアの間でも「うん、なんとなくありそう」「あまり長くいないはうがいいかも」といった声が出ていました。実は私も神戸から戻った次の日は、常に何か(それは緊急の物資搬入とかトラブル対処など)に備えている、意識のどこかがスタンバイしている癖が残ってしまい何をするにも集中力を欠いていたように思えました。また避難所では食事が定時に摂れず、かつ不十分だったためでしょうか、一日中やたらにモノを食べました。

*ここまで8回に分けて掲載した、この文章は1995年2月、ワタシが避難所から戻ってすぐに書いたものです。15年経って読み返してみたら当時の光景が蘇ります。今回、ふと、これを誰かに伝えてみようと思いブログに載せることとしました。印刷された紙1枚だったのでこの機会にデジタル化できてよかったと思っています。


*先週、カリブ海のハイチで大地震が発生しました。
ハイチはアメリカにおける初の黒人国家として知られています。
奴隷身分を振り払い自治を獲得した栄光の歴史です。
しかし軍部のクーデターが頻繁に起こり、政情が不安定で経済が停滞しています。
貧困層にとって今回の震災は想像を絶するダメージを与えているようです。
ワンクリック募金がありますので興味がある方はこちら
http://www.dff.jp/twit_haiti/
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by hoppykosey | 2010-01-25 22:32 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

この震災によって人々は極限状態に追い込まれ、そして今、それぞれが出来る限りの力を振り絞って各々の生活の再生に取り掛かっています。市街地のビルなどは24時間ぶっ続けの解体作業が続いています。町は表面的には素晴らしい勢いで復興に向かっています。

ところが生活再生が自分一人でままならない人々、つまり経済力・体力・気力がない人、身寄りがなく助けに恵まれない人、そういった人々が見事なほど残酷に取り残されていきつつあります。今まで巧妙に隠蔽されてきた社会・制度の矛盾が震災によって一気に露呈したのだと思います。弱い立場にたたされていた人々に対する今回の震災の打撃の大きさは相当なもので、まさに追い討ちといえるでしょう。
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by hoppykosey | 2010-01-25 22:17 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

孤立ということ・・・

この避難所に生活している人の多くは老人です。震災直後はいろいろな世代の人がいたようですが若い人たちはだんだん出て行きました。

結局最後に取り残されるのは一人暮らしの老人のようにも思えました。彼らは倒壊した自分の住居を見に行くことすらもしていません。家は無傷だけど、一人暮らしに戻ることが怖いから避難所に住み続けたいと訴えるおばあさんがいました。

そういえば聴覚の不自由な人が避難していました。恐らく彼らは情報収集に相当苦労したと思います。手話通訳者が定期的に訪問し感謝されることもあったようですが、逆に余計なことはするなと拒否されることもあるようで問題は複雑です。在日外国人もたくさん避難生活を送っています。中国からの留学生と話をしましたが、彼の心細さはよく分かりました。



*先週、カリブ海のハイチで大地震が発生しました。
ハイチはアメリカにおける初の黒人国家として知られています。
奴隷身分を振り払い自治を獲得した栄光の歴史です。
しかし軍部のクーデターが頻繁に起こり、政情が不安定で経済が停滞しています。
貧困層にとって今回の震災は想像を絶するダメージを与えているようです。
ワンクリック募金がありますので興味がある方はこちら
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by hoppykosey | 2010-01-24 22:56 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

この1か月の間に、例えば仮設住宅の抽選に当たった人と外れた人、家が倒壊して避難している人と家は住めるが余震を恐れて避難している人、家族を失っ人と皆元気で助かった人、というように避難者それぞれの違いがはっきりしてきました。避難所生活者の心はバラバラになりつつあります。トラブルで部屋を追い出されたり部屋から出る人もいます。そんな人は廊下や階段で生活しています。部屋ごとに当番が取りにくる配給食糧、ある部屋はいつも一人分だけ運ばれません。事態の深刻さが感じられます。展望を見出だせないで、一日中毛布に埋もれて過ごす人も増えているように思えます。まったく無気力で投げやりになってしまた人もいます。

*このことを思い出すと、15年経った今でも気持ちがゾワゾワして涙が出る気がします
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by hoppykosey | 2010-01-22 20:24 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

ついに小学校の授業が再開されることとなり、教室の確保が問題となっています。これはとても微妙で困難な問題をはらんでいます。授業をするため今まで住んでいた人に他の室に移動してもらうわけですが、当然移動先には先住者がいて、彼等にとっては1か月の避難生活の間に教室内における自分の領域(家族ごとにダンボールの仕切りがあります)が確定し一時的に安定していたところに新人が割り込んでくるわけですから神経質になります。数十センチの幅をどうズラスすか・・・こういったことからも避難所の共同生活のバランスが壊れる危険性もあります。この部屋割りも二宮小学校の校長がやっていますので校長の労は計り知れません。
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by hoppykosey | 2010-01-22 20:17 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

被災者・・・

ミシン室から何台ものミシンを運び出したときのことです。鉄製の旧式ミシンは重く、滑車が付いているのでみんなでガラガラと引っ張っていきました。すると被災者が何人か部屋から血相を変えて飛び出してきました。地震と勘違いしたというのです。このように激しい恐怖心が心に深く刻まれています。余震を恐れて逃げ出しやすい1階の廊下を選んで住んでい人もいると聞きました。

被災した人々は本当に良く耐えています。例えば教室に十数名ずつが住んでいますが、誰かが起
きている限り電灯は消えることがありません。配給の朝食・昼食はパン1つと飲み物1つ、ちょっとしたお菓子がつくことはあります。夕食は大概おにぎり弁当でした。生野菜は皆無です。暖かいものはまったくありません。

こんな食事がすでに1か月続きました。それでも配給を受け取るとき、我に「ありがとう」と
いう言葉をかけてくれる人が何人もいます。「そこに寝てるお婆さんはずっと動いてないから、担いで風呂に連れてやろ」という話をしている人たちもいました。

しかし、私たちが訪れた時期は厳しい転換期の様に思えました。震災直後は「皆無事で良かった、これから助け合ってなんとか頑張っていこう」といった雰囲気でやってこれた、しかしすでに避難生活1か月、人々の忍耐も限界も近付いています。私たちが訪れていた数日の間にもトラブルが大変な勢いで噴き出し始めました。ほんの些細なことで大人同士の喧嘩が始まります。真夜中に殴り合わんばかりの怒号もありました。女性がお互いの髪をつかみ合って床に転げまわる修羅場も見ました。これまで見たことも無い、恐ろしく悲しいものでした。

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*8月に再訪した校庭、ここは野戦キャンプのように夜間はずっと焚き火がたかれていました。
教室の机椅子、倒壊家屋から運んだコッパや柱材・・寒かったから、すごく寒かった。

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by hoppykosey | 2010-01-21 19:32 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

二宮小学校のこども達・・・

二宮小学校で避難生活をしている子どもたちのうち二宮小学校在籍の子は今は数名だけです。
自宅に帰ったり親戚に引き取られたりしたのだと思われます。
避難所で暮らしていた子供たちは、ようやく学校が再開し友達と再会できて嬉しそう、校庭で走り回って遊んでいます。
いたずら小僧の茶目っけに本当に腹を立てる大人もいて面白い。
こういった子供達の笑い声だけが、唯一、地震を忘れさせてくれます。
しかし階段の踊り場に犬と一緒に布団にくるまって一日中じっと浸画を読んでいた少女の姿を忘れることはできません。
犬と一緒に避難生活を送るには同じ部屋の同意が要るのです。親御さんの姿を見ることはありませんでした。
教室ではなく廊下や階段で生活してる被災者が1割程度います。この事情は実は犬だけではなくて、さまざまです。

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*正面奥に見える茶色の建物が二宮小学校の建物です。これも1995年8月に再訪したときに撮った写真です。昭和初期の建築物で多少のヒビ割れを生じながらも倒壊は免れた堅牢な構造です。
とはいえ老朽化が進み、児童数も減少したため廃校の予定でした。現在は取り壊されています。
最後の一仕事が避難所だったというわけです。



以前のほっぴいこうせいブログはこちらです
http://bbbrothers.exblog.jp/
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by hoppykosey | 2010-01-20 19:28 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)

阪神淡路大震災から15年経ちました。15年前の2月、ワタシは神戸市立二宮小学校避難所にいました。たまたまシゴトを休めたこともあり手伝いに出かけたのです。そのときのことは今でもたくさんのことを覚えています。
ふと現地で書いていた日記があることを思い出して家の中を探していると、避難所から戻ってすぐに職場の人向けに書いた自分の文章がでてきましたので数回に分けて転載します。OCRソフトを初めて使いましたが大したものですね。文章はあえてそのままにしました。


1、二宮小学校の教職員…
 二宮小学校では2月13日より午前低学年、午後高学年で2校時ずつの二部授業が始まりました。この小学校は市の中心地にあり、住宅が少ないため各学年1クラス、全校でも6クラスの小規模校です。したがって教職員も十数名しかいません。この十数名で現在約360人の校内避難者の生活を支えています。さらに校内避難者だけでなく数百人の近隣の被災者に対する食事配給も1日2回行っています。
小学校OBやPTA、また毎日私たちを含め数名のボランティアが支援しているとはいえ、二宮小学校教職員の負担は想像を絶するものがありました。教職員の中には自宅が被災したり家族を失った人も多いのだろうと思います。それでも順番に学校に泊まり込み、また連日早朝7時前から援助物資の搬入作業に携わっています。彼らの苦労はまさに筆舌に尽くし難いものでした。
しかもこんな状況にもめげず、一刻も早く子供達に対する授業を再開しようと努力している二宮小学校の教職員の姿、心うたれたのは私だけではないと思います。彼等はこの月曜日からついに授業を再開しました。しかし学校はいまだ避難所であり、この先いつまで避難所なのかも全く見当ません。こういった過酷な負担が二宮小学校の教職員を押し漬してしまうのは、もはや時間の問題だと感じました。二宮小学校だけでなく神戸には同じような学校避難所が数えきれないほどあるのです。きっとどこも同じような状況だと思います。私たちになにができるのかを考えざるを得ません。
授業が始まるので私たちも幾つかの教室を片付けました。図工室の床には子供達の作品が散乱していました。作品棚は転倒し、デッサン用の石膏像が粉々になっていました。大きなものを運び出した後に子供達の作品を箒で掻き集めごみ袋に詰めているときは、いつも陽気なボランティア達もさすがにやり切れない気持ちで終始無言でした。二宮小学校の一人の先生がはっと気付いたように「子供達の作品はこっちへ分けといて」といった声にずいぶん救われました。

*この写真はその年の8月に再訪したときのもので、ワタシが寝泊りしていた部屋です。校内にはまだ何人もの被災者が暮らしていました。
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以前のほっぴいこうせいブログはこちらです
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by hoppykosey | 2010-01-18 22:10 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)