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大阪「YSコーポレーション」山本社長のブログにとってもイケてる話があったので無断でマルっと転載させていただきます。

HAMMOND好きな人はウルウルしちゃうはず。
社長、同じ4月30日生まれのよしみでお許しを。

社長のこのブログには往年の名プレーヤーの写真もたくさん載っています。
http://blog.goo.ne.jp/organ_freak/e/12e418342c771e2607ff071604e0b189




以下転載、長文につき
 forマニアonly 
 
伝説的なオルガンクラブ ピッツバーグのHurricane club「ハリケーン」の歴史


「バーディ・ダンラップのオルガン・ソウル・ジャズのメッカ"仲間"の集う場所」

「ハリケーン・クラブ」はピッツバーグのヒル地区のセンター・アベニュー1603番地にあった。50年代半ばから60年代末までがこのクラブ栄光の時代であり、当時世界で最もホットな小規模ジャズ・クラブの一つであった。この居心地よいクラブでは週に6日夜のショーが、月曜に昼の興行が行われていた。ブルーカラーのジャズ・ファンや著名人がすし詰めになりながら、最高の「ソウル・ジャズ」とハード・バップの演奏を聴きにやってきた。ウェス・モンゴメリー、ローランド・カーク、ケニー・バレル、ロイ・エルドリッジ、ソニー・スティット、ナンシー・ウィルソン、ジョージ・ベンソン、アート・ブレイキー、マックス・ローチ、チャールス・ミンガス、’ワイルド’・ビル・デービス、ビル・ドゲット、ジミー・スミスほか、多くのスタープレイヤーが「ハリケーン」のステージで演奏した。そこは真のジャズファンならば行かねばならない場所で、それは「週末ハリケーンに行ってなかったのならどこにも行ってなかったのと一緒だ」とある後援者が言うほどであった。

「ハリケーン・クラブ」はアメリカ東部と中西部にある小規模のソウル・ジャズ・オルガンクラブの一群ー通称「チットリン・サーキット」の中の女王的存在であった。

ジミー・マクグリフはハリケーン・クラブを「ジャズ・オルガンのアポロ・シアター」に例えた。多くのジャズ・オルガニストが「ハリケーン」を足掛かりに国民的人気を確立していった。あるオルガニストが「ハリケーン」で好評だったとすると、ニューヨークの興行師がそれを聞きつけてさらに「チトリン・サーキット」の仕事を沢山ブッキングしたものだった。「ハリケーン・クラブ」はジミー・スミスやジャック・マクダフ、ジミー・マクグリフ、グルーヴ・ホームズ、ジョニー・ハモンド・スミス、シャーリー・スコット、ドン・パターソン、ワイルド・ビル・デイヴィス、地元ピッツバーグ出身のジーン・ルドウィグらオルガニストのいわば試験場であり、発射台でもあった。ジャック・マクダフとの競演でキャリアをスタートしたジョージ・ベンソンは、ハリケーンの存在がハモンドB-3をジャズの「正統な」楽器に押し上げたと言っている。

数ある「チットリン・サーキット」のクラブのなかで、「ハリケーン」がユニークだったところは、アフロ・アメリカンのバーディとシャイン・ダンラップがオーナーで支配人だったことである。バーディ・ダンラップは先駆的なエンターテイナーで、時給自足できる黒人女性であった。彼女はジャズ通であり、ジャズファンならどんな身分の人間でも彼女の店に歓迎した。後援者を新人に引き合わせる「ジャズ・オルガンのご意見番」ージャック・マクダフは彼女をそう呼んだ。誇り高き高級クラブの女主人のバーディは客に、一緒に座り、互いに敬意を払い、互いの身分の違いを忘れて至福のジャズのひとときを分かち合うよう強く求めた。

「ハリケーン・クラブ」は1950年代から60年代の偏見と隔離の海に浮かぶ安息の島であった。ミドウェーやピッツバーグの他のダウンタウンにあるクラブはヒル地区にあるクラブとほぼ同じ内容の演奏を提供していたが、アフロ・アメリカンのジャズファンは立ち入ることができないという暗黙のルールがあった。ミュージシャン・ユニオンは、しばしばアフロ・アメリカンのアーティストをダウンタウンのクラブから閉め出した。「ハリケーン」や「グロウフォード・グリル」のようなクラブが、多種多様なジャズファンを歓迎し、アフロ・アメリカンのアーティストに仕事を提供した。

「ハリケーン・クラブ」の偉大なジャズ・シーンはヒル地区の界隈はおろかペンシルバニア西部のあらゆるところから人々を集めた。老いも若きも、白人も黒人も、ブルーカラーもホワイトカラーも、有名人も一般人も、上流も下層も肩寄せ合いながらこの店に足しげく通った、とピッツバーグ・プレスのアン・バトラーは書いている。バーディはアン・バトラーにこう話した「うまく説明できないわね、それはひどい差別と隔離の時代だったから。でも誰もが同じブースで一緒に座ったものよ。彼らと一緒にいて幸せだったわ」バーディ・ダンラップは全てのひとに友好的で安全な雰囲気を提供し、それは彼女の社会活動ともなったー。



「バーディ・ダンラップ ― 歴史的指導者の曾孫」

バーディ・ダンラップは1900年ピッツバーグのヒル地区でアンナ・シモンズとして生まれた。彼女の母方であるウッドソン一家は1831年にピッツバーグに移住してきた。父方の曾祖父リヴァレンド・ルイス・ウッドソンは1831年にベテルアフリカ系メソジスト監督教会の牧師に就任しアフロ・アメリカンの子弟のための学校を設立した。彼の教え子には、医師であり奴隷制度廃止論者であり、作家、そしてアフロ・アメリカンでは初めてアメリカ合衆国軍の将校に任命されたマーチン・デラニーがいた。リヴ・ウッドソンもまた奴隷制度廃止論者の指導者でアンダーグラウンド・レイルロード(奴隷制度廃止以前の逃亡奴隷支援組織)に参加していた。ウッドソンは奴隷制度廃止論者の新聞「カラード・アメリカ」紙に寄稿していたし、フレデリック・ダグラス、マーチン・デラニー、ジョン・ヴァションらとともに奴隷制廃止を訴えて国中を回った。リヴ・ウッドソンは1856年ウィルバーフォース大学の設立者にも名を列ねている。バーディの祖父ジェームス・ウッドソンはピッツバーグで1835年に生まれた。

アンナ・シモンズは家庭では「バーディ」と呼ばれていた。バーディの父ルーファス・シモンズは彼女がまだ生後21か月の時に亡くなった。彼女の母キャロライン’キャリー’シモンズは美容師で、人形の繕いもした。家計のために、バーディは9歳のときにハウスクリーナーとして働き始めた。彼女は成績優秀であったが、タバコ工場に勤めるために13歳のとき7年生で中退を余儀なくされた。

「ビル・ハーバートとセル・ホールにジャズ・ビジネスを教わる」

1915年、15歳のバーディはビル・ハーバートと結婚した。ハーバートは彼女を来たるべきジャズ興行の新世界にひきあわせた。彼は銀行のクラークというフルタイムの仕事に加え、音楽の興行師にして伝説のアスリートであったセラーズ・マッキー・ホールの下でも働いた。セラーズはピッツバーグでアフロ・アメリカンの音楽興行界の先駆的存在であった。彼は自らがピシァン・テンプル他で主催する1,500から2,000人規模の大衆的なダンスにジャズのビッグ・ネームをつれてきた。1920年代から30年代の間に、セル・ホールはデューク・エリントン、カウント・ベイシー、フレッチャー・ヘンダーソン、ビリー・エクスタインほか多くのスウィング・バンドの興行を行った。

ビル・ハーバートとバーディは1938年にセル・ホールがシカゴに移住したあと、ジャズのコンサートを手がける様になった。ニューヨークにおけるセラーズ・マッキー・ホールのコネで彼らはファッツ・ウォーラー、ルイ・アームストロング、チック・ウェブの興行を行った。彼らの主催したルイ・アームストロングのショーはイースト・リバティのモーター・スクエア・ガーデンに実に3,000人を動員した。サッチモを聴こうと血迷ったジャズファンがドアをぶち破ったりした。彼らはファッツ・ウォーラーが最初にピッツバーグに来たときもモーター・スクエア・ガーデンに連れて行った。ニュー・ミラドー・イン・ホームステッドの興行では、新進気鋭の歌手、エラ・フィッツジェラルド擁するチック・ウェブ・オーケストラを披露した。

音楽ビジネスでは十分費用を賄えなかったため、ビルは建設作業員として働いた。1939年、ビルは建設作業中の事故で大やけどを負い亡くなった。バーディはダンスの興行をやめ、1日6ドルの家政婦の仕事にいった。



「シャインとの出会い、そして新たなビジネス」

1939年という年はバーディにとって重要な転機の年であった。彼女はこの年ピッツバーグのアフロ・アメリカン美人コンテストで初代女王になった。彼女はヒル地区センター・アベニュー1862番地で非合法的にアルコールを提供する(正規の時間外に営業する)ヤミのクラブを始めた。この年は彼女にとって2人目の夫となるウィリアム・’シャイン’ ダンラップと出会った年でもあった。シャイン・ダンラップはヒル地区のリッツ・ホテルのオーナーで、女を食い物にしているともいわれていた。二人のデートの都合から、バーディはシャインに女の用心棒の仕事をやめさせた。シャインはセントルイス1898で生まれ、1928年にピッツバーグに移ってきていた。
バーディとシャインは8年にわたるデートと旅の末、1945年に結婚した。1945年の12月、バーディはセンター・アベニュー1856番地、ルーズベルト・シアターのそばのジョンソンズ・バーベキューを引き継いだ。彼女はこの店をあらためてバーディーズ・バーベキューと名付けた。当時の広告には彼女の店では家庭料理、南部風バーベキュー、チリ・スペシャル、そしてパイなどを午後2時から午前7時まで提供するとあった。


「地平線上の嵐」

何度かの旅行のうち、あるときシャインとバーディはデトロイトのソニー・ウィルソンのナイト・クラブに入った。そこのバンドはバー後ろの高いステージで演奏していた。バーディとシャインは、この方式が気に入っており、飲み物の売り上げをアップさせるのによい方法だと思った。後援者達はバーに一列に座って飲むと、ちょうどバンドが見える様になっていた。店にいる者たち全員がバーの方に向いて座った。バーディたちはバー後方のステージのあるジャズ・クラブをすることに決めた。バーディのレストラン経営とジャズ興行の経験とが合わさって、新しい挑戦が始まった。

夫妻はこの新しいクラブを「ハリケーン」と名付けた。バーディは「疾風怒濤を巻き起こすような」クラブを欲していた。

ハリケーン・クラブはロバート・ストリートとミラー・ストリートに挟まれたセンターアベニュー1603番地、ルーズベルト・シアターからほんの数ブロックのところにあった。それは細長い建物で、壁と壁の間に120人を収容することができた。入り口から見て、左側が長いバーで、右側がブース席であった。その間にテーブル席が狭い通路に仕切られて並んでいた。バーの上方に設けられたステージは、クラブの奥の方から3分の2を占めていた。トリオを想定して造られたため、ステージはオルガンと、ドラムセットと、ギタリストまたはサックス奏者とがやっと上がれる程度の幅10フィート、高さ5フィートであった。後で、ステージはクインテットが演奏できるよう拡張されて、右側に狭い通路が設けられた。

壁は桟の付いた横張りのライト・ウッドで覆われていた。ブース席後ろの壁にはドレープがかかっていた。建物奥の突き当たりには、トイレと調理場への動線を確保するためのスペースがあった。バーディは後援者達に大きなステーキや、巨大なブラジル産のエビ、ぶつ切りフライドチキンやサンドイッチを提供した。そこはジャズと、うまい料理と、いろんな人生を送っている人々をもてなす雰囲気のある、社交的な空間であった。


「ハリケーンがピッツバーグを嵐に巻き込む」

クラブ・ハリケーンは1953年10月23日にオープンした。ギタリストのカルヴィン・キング、サックス奏者のリロイ・ブラウン擁するルビー・ヤング・オルガン・トリオがオープニングの夜に演奏した。彼らの演奏は1954年7月までの8か月の契約のあいだ続いた。つぎにキング・ソロモン・オルガン・トリオが同年7月24日から演奏した。ほかにもエディー・ウィンターとリズム・ロッカーズ―ギタリストはエミー・ランサム、サックス奏者ジーン・ウォーカーのエスクワイアズが草創期に出演した。1周年記念パーティは1954年10月28から30まで行われた。



「ジミー・スミス ―嵐の目」

ジミー・スミスが初めてハリケーンに姿を現したのは1956年3月であった。かれはブルー・ノートと契約し、グリニッジ・ビレッジの「カフェ・ボヘミア」でのソロ・デビューを果たし、スターダムに駆け上る真っ只中であった。1956年から1960年という、スミスにとって最初の長い契約によって、ハリケーンは、若きソウル・ジャズ・アーティスト達にとってのメッカとなった。1956年6月クラブを満杯にしたことで、スミスのハリケーンとの契約は1か月間延長された。ピッツバーグ・クーリエ紙はスミスの演奏についてこう書いている「すぐにハリケーンに行って命の洗濯を」

「ハリケーン」では、著名人に混じってごく普通の連中もいた。たいていの後援者は地方の政治家、スター・アスリート、レポーター、大金持ち、そしてふらりとやってくる著名人達であった。スティーラーズのクォータバック、ボビー・レインは従業員達に巨額のチップを振る舞った。ランニングバックのジョン・ヘンリーとラインマンのビッグダディ・リプスコムもレインについて来て店のファンになった。デューク・エリントンやカウント・ベイシー、サラ・ボーンのようなツアー・ミュージシャンも、スタンレーやサヴォイでのショーを終えた後に立ち寄ることがあった。カウント・ベイシーはバーディの豆料理が好物だった。ウォルト・ハープナーやヘラルド・ベターズのような地元のミュージシャンはギグがはねたあとは、ジャムのために「ハリケーン」にむかった。

「ハリケーン」はジャズ・スターを目指す若者も引きつけた。バーディは月曜午後5時の昼興行を行って年少の客を店に入れた。時には夜のショーにもシット・インさせた。

サックス奏者エリック・クロスは父親と一緒に午後のショーにやってきていた。彼はバーディのチキンがとても好きだったし、ソニー・スティットのどプロと一緒にステージにあげたりした。ドラマーのロジャー・ハンフリーズは12歳のときにハリケーンの午後のショーに来てジャック・マクダフのバンドにシット・インした。ジャズ・ギタリスト、トニー・ジャンフローン・シニアもバーディの声かけで10代のころにハリケーンに来た。ジーン・ラディグはハリケーンでジミー・スミスの一撃をくらって、ハモンドB3を弾くようになった。


「彼らをお迎えし、座らせ、もてなし、尊敬せよ

バーディ・ダンラップの成功の秘訣は、いかなる人も歓迎し、座らせ、包み込み、交わらせ、飲ませ、無礼な厄介者達を閉め出したことである。

ハリケーンはテーブル・チャージや最低ドリンク・ルールなしでバンドに週 1,600ドルから2,000ドルを払うことができた。このことは特筆すべきことであった。ハリケーンは週6日間の飲み物と食べ物の売り上げだけでそれを賄っていたということだ。テーブル・チャージなしで後援者たちは1杯引っ掛けて、音楽をワン・セット聴いて帰ってもいいし、じっくり一晩を過ごしてもよかった。生き残っていくためには、店はいつも満員で客は飲み続け、食べ続ける必要があった。後援者のグラスが空になると、すかさずバーディやウェイトレスが「何か別のをお持ちしましょうか?」ときいてくるのだった。客はハリケーンでは何も持たないで座っていることはできないきまりだった。

バーディは満員のときでも入店を断らなかった。「大丈夫、お入りください!」そして「さあ、こっちにおかけになってください」と後援者を空いた席にへ誘導した。彼女はできるだけ沢山の人間を一つのテーブルに座らせた。見知らぬ一見の客も時おり混じっていた。彼女はカップルを6人がけのテーブルに座らせるなどは出来なかった。バーディは男の方に、彼女を膝に載せるようにさえ言った。とにかくクラブに人を詰め込むことが大事だった。後援者たちは、先客がいるテーブルやブース席でも彼女が言う通りのところに座らねばならなかった。彼女は肌の色など関係なく、同じブースにすわらせ、交わるようにしむけた。バーディはレバノン山から来た田舎紳士と、ワイリー・アベニューから来たカップルを同席させた。彼女は沢山の人を出来るかぎり社会のるつぼにぎゅうぎゅう詰めにした。もし中に入る隙間がないときは、外で並んで待っている者にも飲み物を売った。

バーディは究極の女主人であった。彼女の人柄が客を迎え入れ、座らせ、もてなし、心安らぐひとときを与えるのだった。彼女はタバコはやらなかったし、飲んでも荒れるということがなかった。彼女は喧嘩や不適切な振る舞いには容赦しなかった。後援者であっても、錯乱したり支払いをしなかった者は出て行くよう言われた。女性に対し無礼な態度をとった者も丁重に外に送り出された。クラブの中で淫らな行為を行う者もたたき出された。ピッツバーグ・クーリエ紙の編集者フランク・ボールデンはインタビューの中で「女の子はYMCAにいるよりもハリケーンにいる方がよっぽど安全かもしれないな・・・鬼軍曹が見回っているからね・・・それは法であり秩序だ。でもそれが愉快なのさ」


「社会のオアシスが終わった」

シャイン・ダンラップは脳溢血で1964年12月24日、この世を去った。バーディは彼の死後6年間はハリケーンを延命させた。1968年キング牧師の暗殺の翌日、4月5日にヒル地区で暴動が巻き起こり、4月12日まで続いた。キング牧師の暗殺、不平等、隔離、劣悪な学校、給料の保証される組合からの排除などに怒りを募らせた暴徒の数はふくれあがった。暴動で商売はめちゃめちゃにされた。505箇所の火災がようやく収束したころには、62万ドルの経済損失と、1人の死者と926人の逮捕者が残った。その影響で、100以上の商店主が店をたたんでヒル地区を去った。ヒル地区は、いまやひったくり、強盗、街頭のヤクの売人たちのはびこる相当に危険な、貧困と犯罪の街になってしまった。ピッツバーグの住民は身の安全を考えて、ヒル地区を通らない様にした。

暴動のあとの衰退期のハリケーン・クラブの話。バーディはなんとかバンドにギャラを支払うよう奮闘した。バーテンダーたちはもはやチップが稼げないと見るや、電話で病欠を伝えてきた。ヤクザどもが三日締め料を要求してきた。バーディはポスト・ガゼット紙にこう書いている「彼らはよく言ったわ。『金をださねえとこの店を吹っ飛ばすぞ』って。子分の一人は、お前も黒こげにしてやろうかって」1970年4月18日、ハリケーンの内装、調度が燃やされた。バーディはクラブを修繕した。しかし、二度と戻らなかった。1970年の終わりごろ、彼女は「ハリケーン」を売却した。オルガン奏者ジーン・ラディグが「ハリケーン」で演奏した最後のプレイヤーだった。そこは後に誰の記憶にも残らない場末のバーになった。「ハリケーン」、「ルーズベルト・シアター」そして多くのセンター・アベニューの建物が取り壊され、数年後にクローフォード・スクエアの住宅開発による再開発地域となった。

バーディ・ダンラップは1973年9月22日、クローフォード・グリルのイベントで表彰された。アメリカ酒造協会も1978年に、彼女を人種融和に貢献した「ジャズの人道的活動家」として表彰した。バーディはずっとヒル地区にとどまり、シビック・エリアの反対側のワシントン・プラザ・アパートで暮らした。彼女は1998年、旧きよき時代とジャズの記憶の遺産を残して、98歳でこの世を去った。




*この日本語訳はYSジャズオルガン科の生徒戸根さんにしてもらいました。戸根さんありがとうございました。

*チトリンサーキットにあった無数のオルガンルームと呼ばれたオルガンクラブはハリケーンのようにオルガンを常設しているところばかりではなかったのでオルガニスト達は自前のハモンドB-3とレスリーを積んでツアーしました。
オルガンを出し入れしやすいように霊柩車を改造して最初にチトリンサーキットをツアーしたのはジミースミスでその後殆どのオルガニストがジミー・スミスを真似て霊柩車を購入したそうです。
ハリケーンの成功で多くのオルガンクラブがB-3を常設したので(その名残がNYのハーレム)オルガニストは霊柩車を手放していきました。
ローダ・スコット(ニュージャージー州ドロシー生まれ)は30-40年前のニュージャージーの殆どのクラブにはB-3が常設されていたと何かの記事に書いていました。(1997年談)


大阪YSコーポレーション 山本社長のブログより
http://blog.goo.ne.jp/organ_freak/e/12e418342c771e2607ff071604e0b189
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by HoppyKosey | 2014-01-31 00:29 | 音楽 | Comments(2)

 「Fried Pried」




眠気が吹っ飛んだ

凄いぞ「Fried Pried」 (Shiho&横田明紀男)
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by HoppyKosey | 2014-01-30 00:30 | 音楽 | Comments(3)

ロマネコンティ

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「200万円~」 だそうです。
ただし要予約で要前金。

嬉しいことにイカフライをサービスしてくれる。

冗談かと思ったがロマネコンティってのは通販でもこのくらいするようです。
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by HoppyKosey | 2014-01-29 00:40 | 大衆酒場 | Comments(2)

路線バスの旅 テレビ

正月テレビで「路線バスの旅」ってのをみたけど面白かったなあ。
路線バスに乗って遠くに行ってみたくなりました。
しかしロケスタッフは大変そうです。

ワタクシもときどきテレビは観ますよ。
「鉄腕ダッシュ」とか「鶴瓶の家族に乾杯」とか「珍百景」なんか面白いです。
イモトのも好きですよー
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by HoppyKosey | 2014-01-28 00:15 | ひとこと | Comments(2)

バックギャモン

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バックギャモンは中近東発祥のスゴロク。
イスタンブールのアジアサイドのカフェでは大勢のカップルやオヤジたちがバックギャモンに興じておりました。
ボードは店で貸し出しているだけでなく、あらかじめテーブルに置いてあったりもしました。

ワタクシもバックギャモン好きなのでせっかくの本場(?)ですから現地人と対戦したかったのですが、どうも声をかける勇気がありませんでした。

帰国して知ったのですが、トルコでのルールはかなり違うようでした。
トルコのバックギャモンは「モウルテジム」といいます。
コマの配置や進行方向が違うばかりかアタックやブロックについてもかなり異なります。

つまり、現地人との対戦は不可能だったというわけです。
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by HoppyKosey | 2014-01-27 00:49 | 出かけた | Comments(1)

さよなら原発 講演会


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by HoppyKosey | 2014-01-26 00:03 | バカバカしいお話 | Comments(1)

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Darlene Love
Judith Hill
Merry Clayton
Lisa Fischer
Táta Vega

60s黒人コーラス・ガールたちのドキュメンタリー映画、ライブ映像と最近のインタビューで構成されている。

バックコーラスのネエちゃんたちってカッコええわい、とよだれを垂らしていたワタクシだが、オトコたちを興奮させる露出系衣装とダンスを強制されてネエちゃんたちはいつでも超ムカついていたそうだ。なるほど、シンガーだからね。すまん、申し訳なかった。

Eプレスリー、マイケルJ、レイチャールズ、ミックジャガー、スティービーワンダー、ベットミドラー、スティングなどなどビッグネームが次々登場、彼女たちがバックコーラスをやっていた。悪名プロデューサーのフィル・スペクターも登場。彼は確か今、殺人罪で刑務所にいるはず。

誇りと情熱、ソロになりたいという願いとなれない屈辱がドロドロロン、原題は『20 FEET FROM STARDOM』


とてもびっくりしたのはリサ・フィッシャーの歌、すごい歌手がいるんだねえ。
彼女もコーラスガールだから名前を聞かなかったんだろうか。

もひとつ、ミックジャガーって、なかなかいい奴だ。
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by HoppyKosey | 2014-01-25 00:28 | 映画・舞台 | Comments(1)

どれもこれもうまかった!
料理はいろんなことに対する愛とレスペクトの結晶。


先日、盟友Kimさんに協力してもらって「民族料理体験」イベントをやった。
調理人は、タイ、ベトナム、ネパール、アメリカ人。

参加者数が少なくて料理が余るかも・・・
でもそうなら余りモノをたっぷりもらって帰ろうと算段。

ところが参加者のみなさん、大いに作って食べまくっちゃってほぼ完食。
インスタントとは全く違う。
5人のシェフがみんなを楽しませようと「本気」でやってくれた気持ちが味に乗り移るんだね。

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ベトナムのティーさんは生春巻きとスープ、このスープが素晴らしくてこれだけで私は昇天、といいつつ次々に食べまくりました。

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タイのナオイさんはソーメングリーンカレーとなんとかというデザート。これまた私の好み、ついでにナオイさんも可愛らしくて素敵。

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ネパールのスミタさんは辛いカレーとやや辛いカレーと揚げパンとチャ。辛さは抑えてくれたということで私は辛いほうもOk、作っているときにスパイスが巻きあがってたくさんの人がせき込んだのは面白かった。
揚げパンはごま風味で絶品!

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アメリカのテリーさんとその友達、アメリカの民族料理ってなんだ?と思ったらこの日はイタリアン。ラザニア、サラダ、カナッペ・・この二人は盛りつけがおしゃれ。パーティー料理の華やかさ、さすがだね。
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参加者はみんな喜んでくれたけど5人のシェフも楽しかったと言ってくれたのでうれしかった。KImありがとね!

ワタクシも料理を作って誰かに食べてもらいたい、と思いました。
そのためにはまず魚の捌き方からです。
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by HoppyKosey | 2014-01-24 00:42 | 食べ物 | Comments(2)


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by HoppyKosey | 2014-01-23 00:43 | 音楽 | Comments(1)

小雨の田巻屋

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by HoppyKosey | 2014-01-22 00:27 | 写真 | Comments(2)