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旧 神戸市立二宮小学校 その3

被災者・・・

ミシン室から何台ものミシンを運び出したときのことです。鉄製の旧式ミシンは重く、滑車が付いているのでみんなでガラガラと引っ張っていきました。すると被災者が何人か部屋から血相を変えて飛び出してきました。地震と勘違いしたというのです。このように激しい恐怖心が心に深く刻まれています。余震を恐れて逃げ出しやすい1階の廊下を選んで住んでい人もいると聞きました。

被災した人々は本当に良く耐えています。例えば教室に十数名ずつが住んでいますが、誰かが起
きている限り電灯は消えることがありません。配給の朝食・昼食はパン1つと飲み物1つ、ちょっとしたお菓子がつくことはあります。夕食は大概おにぎり弁当でした。生野菜は皆無です。暖かいものはまったくありません。

こんな食事がすでに1か月続きました。それでも配給を受け取るとき、我に「ありがとう」と
いう言葉をかけてくれる人が何人もいます。「そこに寝てるお婆さんはずっと動いてないから、担いで風呂に連れてやろ」という話をしている人たちもいました。

しかし、私たちが訪れた時期は厳しい転換期の様に思えました。震災直後は「皆無事で良かった、これから助け合ってなんとか頑張っていこう」といった雰囲気でやってこれた、しかしすでに避難生活1か月、人々の忍耐も限界も近付いています。私たちが訪れていた数日の間にもトラブルが大変な勢いで噴き出し始めました。ほんの些細なことで大人同士の喧嘩が始まります。真夜中に殴り合わんばかりの怒号もありました。女性がお互いの髪をつかみ合って床に転げまわる修羅場も見ました。これまで見たことも無い、恐ろしく悲しいものでした。

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*8月に再訪した校庭、ここは野戦キャンプのように夜間はずっと焚き火がたかれていました。
教室の机椅子、倒壊家屋から運んだコッパや柱材・・寒かったから、すごく寒かった。

by hoppykosey | 2010-01-21 19:32 | 阪神淡路大震災 | Comments(0)